キーパーソンインタビュー

再び“被災地の希望の光”に。
心を一つに、魅力溢れるクラブへ。
ベガルタ仙台
クラブコーディネーター 平瀬 智行さん(写真左)

マイナビ仙台レディース
株式会社 マイナビフットボールクラブ 事業運営部
部長 貝田 真さん
(写真右 2011年当時:ベガルタ仙台 事業部 ホームタウン課 課長)
※2021年1月撮影

「被災地の希望の光に」——。東日本大震災が発生した2011年以降、手倉森誠監督が何度も口にした言葉は、仙台市をホームタウンとするプロサッカークラブ「ベガルタ仙台」の選手、スタッフ、サポーターの心を一つにし、その想いを体現したチームは躍進。被災地の多くの人々に勇気と感動を与えた。ベガルタ仙台のクラブコーディネーターを務める平瀬智行さんと、当時、事業部 ホームタウン課 課長として活動していた貝田真さんは、震災発生直後から被災地を訪れ、被災者とふれあうなど、二人三脚で支援活動を展開してきた。あれから10年。平瀬さんは、当時指揮を執っていた手倉森誠監督が8年ぶりに復帰する巡り合わせを「運命」と語る。あえてPRを控えた支援活動のこと、復興に寄せる想いなどを2人に伺った。

STORY 01

ユアテックスタジアム仙台で被災。
3日後に支援活動を開始。

現在、ベガルタ仙台のクラブコーディネーターを務める平瀬さんはサッカーの名門・鹿児島実業高等学校を卒業後、鹿島アントラーズでデビュー。クラブの主力としてJリーグ史上初の三冠を経験し、日本代表にも選出されるなどストライカーとして活躍し、その後、横浜F・マリノス、ヴィッセル神戸などを経て、2008年手倉森監督に請われて当時J2(Jリーグ2部)だったベガルタ仙台へ入団。2009年のJ2優勝・J1(Jリーグ1部)昇格に貢献した。2010年、怪我の影響により惜しまれつつ現役を引退し、翌年にクラブの魅力を広く発信するクラブアンバサダーに就任すると、2018年にはクラブと地域との関わりを深め、より強い絆を構築するためにクラブコーディネーターへ役職を変更した。
「特にその後のあてもなく引退し、初めはしばらく休みたいと考えていたのですが、誠さん(手倉森監督)や丹治さん(前強化育成本部長)から、アンバサダーをやらないかと打診がありました。誠さんにはベガルタへ声を掛けてもらったご恩もありますし、『もちろん、やります』と引き受けました」

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献身的なプレーやサッカーへの真摯な姿勢で多くの若手選手からも慕われた平瀬さん

選手、スタッフ総出で支援物資を配布

2011年当時、ベガルタ仙台のホームタウン活動に従事していた貝田さんは、震災が発生した時、平瀬さんと共にユアテックスタジアム仙台にいた。
「平瀬さんのアンバサダー元年ということもあり、翌日開催予定だったホーム開幕戦の名古屋グランパス戦に向けて、どのような準備をするかということを打ち合わせながら、スタジアムのロビーで物販のドリンクなどを運んでいた時に大きな揺れを感じました」
さらに平瀬さんが続けた。「ロビーにスタジアムの案内板があるんですが、そこに思わずしがみつきましたね。すごく長く揺れていたと思います。女性の悲鳴なども聞こえました」
直後、2人をはじめ、スタジアムで作業に当たっていたスタッフたちは七北田公園へ避難。平瀬さんは家族が待つ自宅へと車を走らせた。「町が混乱していて、道路もひどい渋滞でした。普段であれば15分ほどで帰ることができますが、その時は1時間半ぐらいかかりました」
貝田さんは夕方にクラブの事務所へ向かった。「事務所の中は、もうグチャグチャでしたね。一人ではどうしようもなかったので帰宅しました。そこから一週間ほど、選手、スタッフ共に自宅待機となりました」

それから2、3日後のこと。貝田さんの電話が鳴った。相手は平瀬さんだった。「平瀬さんから連絡があって、『個人的に炊き出しに行ってもいいか』と聞かれて、そういう想いがあるなら、ぜひ行ってくださいと答えました」
平瀬さんは交流がある焼き肉店から食料を提供してもらい、避難所へ向かった。「困っている人がたくさんいるのではないかと思い、おにぎりとキムチを持って六郷や七郷の辺りを訪れました。それまでは停電していてテレビが見られず、ラジオで被害の状況は聞いていたのですがピンときていませんでした。しかし、その時に沿岸部の様子を見て、こんなことになっているのかと驚きましたね」

当時、平瀬さんの他にもベガルタ仙台の選手たちは自主的に、さまざまな支援活動を行っていた。貝田さんは後援会やサポーターなどと話し合いを重ねながら、クラブとしての支援活動に乗り出した。
「沿岸部の避難所に支援物資などを運びたいという意見が多かったので、ユアテックスタジアム仙台を物資の引き受け拠点に定めました。そして、ここに集まった物資を選手やスタッフたちが分かれて避難所にお届けしました。あの時はJリーグの他のクラブからも何か支援したいとたくさんの申し出があり、日本サッカー界のすごさを実感しましたし、とても感謝しています」
その後、選手、スタッフたちは支援活動を続けながら、約1カ月後に再開することが決まったリーグ戦へ向けて準備を進めた。

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貝田さんは、震災の経験を講演などで広く伝えている

チームの躍進を生み出した一言

4月23日、ベガルタ仙台はリーグ再開戦を川崎フロンターレとアウェイで戦った。川崎市の等々力競技場ではサポーター同士が再会してお互いの無事を確かめ合ったり、川崎フロンターレのサポーターから温かい声援が送られる光景も見られた。試合は雨が降る中、先制点を奪われたものの、後半28分のゴールで追いつき、後半42分の決勝点で劇的な逆転勝利を飾った。この試合を平瀬さんは貝田さんと仙台市内のいろは横丁で行われたパブリックビューイングで、50人ほどのサポーターや市民と見守った。「逆転ゴールが決まった瞬間は、後にも先にもない盛り上がりでしたね。試合後に(手倉森)誠さんが涙ぐみながらインタビューを受けているのを見た時には、こみ上げてくるものがありました」

それからベガルタ仙台は震災後、初のホーム戦となった浦和レッズ戦も1-0で制すなど、リーグ再開後11戦連続負けなしと気を吐いた。その大きな要因となったのが、手倉森監督が震災後、初めてチーム練習を行う前にミーティングで発した「被災地の希望の光になる」という言葉だと平瀬さんは語った。「あれが一番大きかったんじゃないかと思いますね。選手の中には、ホームタウンが大変な時にサッカーをしていていいのか迷いがありましたが、あの一言によってプロのサッカー選手としてやるべきことが明確になり、チームが一つにまとまりました。実際に選手のプレー、普段の言動にもその想いが浸透しているのを感じましたし、試合結果にも表れていました。チームとしての雰囲気も良く、まさに手倉森マジックでしたね。何よりも被災地の方々が喜んでくれたのが嬉しかったです」
手倉森監督の言葉を選手、スタッフは胸に留め続け、翌シーズンにチームは過去最高のリーグ2位に輝くなど、被災地というハンデを乗り越えて躍進した。

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気迫溢れるプレーの数々で勝利を重ね、2011年、2012年とクラブ最高順位を更新
ⒸVEGALTA SENDAI
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「被災地の希望の光となる」を胸に指揮を取る手倉森監督。震災から10年となる2021年に復帰
ⒸVEGALTA SENDAI