「震災から何を学ぶことができたのか」との問いに毛利さんは「『みんなで一緒にやろうよ』という気持ちが強くなったことだ」と答える。被災後に志したワイナリーの開設を成し遂げた後も、そこに留まることなく、ワインや食を土台としてみんなで一緒にできることを模索してきたのは、そんな思いがあったからだ。これからさらに、多くの地域の風土や生産者の思いをつないで、大きな東北ツーリズムをつくり出すことを目指している。
縁が深かった女川の被災で感じた思い。
なんとかしなければ。何か動き始めなければ。
毛利さんは、震災以前は仙台で建築設計事務所に勤めていた。「東京に本社があって主に公共建築などを手がける会社でした。女川町には僕が設計を担当した施設があり、頻繁に通っていました」
毛利さんが設計に携わった施設とは、2006年に旧女川駅隣に開業した町営施設「女川温泉ゆぽっぽ」のことで、かなり細かいところまで町の人たちとやり取りをしてつくり込んだ施設だったという。「評判が良く、利用者数が当初の想定よりはるかに多くて、町の方からも利用者数をこまめに教えてもらっていました。『ゆぽっぽ』の建設前から完成後まで長く通ったので、定食屋のおばちゃんと親しくさせていただいたり、寿司屋の大将がよくおまけしてくれたり、思い入れのある町でした」
建築は、自然の前では無力だった
震災後、毛利さんの会社は、本社から送られてきた救援物資を顧客に届けたり、建物の被災調査の依頼が数多くあり、社員は多忙を極めていた。
沿岸部に行くことができたのは1カ月ほど経ってからだったという。女川を訪れた毛利さんの目に映ったのは、建物が基礎だけを残して津波に流され、ガレキに埋め尽くされた町の姿だった。「『ゆぽっぽ』も女川駅も全壊状態でした。海岸近くでは地元の消防団の人たちが泣きながら遺体捜索をしていました。建築って弱いなと思ったんですよ、あのとき。人を守れなかった。自然の前ではほんとうに無力だなと感じました」と毛利さんは話す。
また「なんとかしないと、ここからの復興はできない。自分で何か動き始めないといけない」と思ったのも、その時だった。
毛利さんが設計を担当し思い入れのあった旧「女川温泉ゆぽっぽ」は、津波によって上部の木造部分が流失し、コンクリートの低層階だけが残った
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地域の人たちの生の声を聞いた
被災調査をしながら、自治体の復旧や復興に関する会議に外部有識者として参加する機会もあった。「復興計画をつくるのにアイディアがほしい」という話もあったという。「もともとそのような企画提案は仕事で経験があったので、積極的にいろいろ考えました」
毛利さんは建築設計に関する分野から、現状復旧だけではなく地域に新しい賑わいを創出するような未来志向の案などいくつかの提案を考えた。「会議では、復旧の応援で来ているいろいろな民間企業の方、地域の代表の方など、たくさんの方とお会いする機会がありました」
自治体の人たち以外にも、被災地域のさまざまな業種の人、生産者の人たちから直接話を聞くことができたという。
「地域の方たちも深刻な状況の中での計画作成でしたので、実際には僕らの提案は参考意見程度でしたが、いろいろな会議に参加させてもらって、地元の人の生の声を聞くことができたのはとてもありがたかったですし、僕のここから先の目標に関わるターニングポイントになったと思っています」
設計に携わっていた者として、津波被災地の状況を見たときに、建築の無力さを感じざるを得なかった
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