がんばろう東北 —— 。宮城県を本拠地とするプロ野球チーム「東北楽天ゴールデンイーグルス(以下、楽天イーグルス)」のユニフォームには、東日本大震災以降、必ずこの言葉が刻まれている。現在、一軍打撃コーチを務める鉄平さんは、球団創設の翌年である2006年にチームへ入団。2009年にはパ・リーグの首位打者を獲得し、震災が起きた2011年には球団初のキャプテンとしてシーズンを戦い抜き、その後、他チームへの移籍を経て、現役引退後に再び仙台の地へ。震災から10年となる新シーズンに向けて、準備を進める鉄平さんにオンライン取材を行い、当時のエピソードや現在感じていることなどについて伺った。鉄平さんは時に考え込み、言葉を選ぶようにしながら、被災地への想いを明かしてくれた。
震災発生後、仙台へ戻れず、
葛藤する選手たち。
8回表、鉄平さんがライトを守っていた時、地震発生を告げるアナウンスが球場に響いた。楽天イーグルスは来る新シーズンへ向けて、兵庫県明石市でロッテとのオープン戦に臨んでいた。「震災の状況は段階的に把握していきました。まず、球団代表から地震があったと報告があり、その少し後に非常に大きかったということがわかり、試合は途中で中止に。最初はそこまでひどい状況だとは思っていなかったのですが、徐々にかなりまずい事態なのではないかという雰囲気になっていきました」と鉄平さん。不安が募る中、家族への連絡が取れたのは試合からホテルへ帰るバスの中だった。「車内のテレビで津波の情報を知り、家族にはとにかく海の方へ行かないようにと伝えました。その時はあまりピンときていないようでしたが……」
その後、翌日以降のオープン戦は中止となることが決まり、連日、グラウンドの内外でキャプテンである鉄平さんをはじめ、選手やスタッフの間では今後の動きについて話し合いが行われた。「私を含めて選手たちは、ほとんど仙台で暮らしているので、一番多かった意見は『一刻も早く仙台に帰らせてくれ』というものでした。野球のことを考えられる状況ではありませんでしたね」
この選手たちの要望に対し、球団は当時の被災地の状況などを鑑みて、すぐには戻らず、ほかの地域で練習を続けるという苦渋の決断を下した。
新シーズンへ向けた練習の合間に、オンライン取材に対応してくれた
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日本中へ支援を訴えた実直なスピーチ
「星野仙一監督(当時)から『いつかはわからないけど、プロ野球は必ず開幕する。その時に万全の状態でプレーできるよう準備するのが我々の仕事だ』と伝えられました」と語る鉄平さんだが、「正直、その時はあまり納得できませんでした」と続けた。「私は家族も自宅も無事だったのですが、野球をするよりも、被災地に行って瓦礫の一つでもいいから片付けたいと思っていましたし、帰ったら絶対にやろうと決めていました。しかし、もちろん勝手な行動はできないので、葛藤がありましたね。我々と同じように仙台で活動しているベガルタ仙台や仙台89ERSは、すでにそのような活動に当たっていましたし、同じプロ球団として復興支援の活動をしたかったです」
開幕へ向けて、東京ドームでチーム練習を行っていた鉄平さんは記者からの質問に対して、「野球に集中できる状況ではない」と素直な心情を吐露している。
震災から約一カ月後の、4月2日、3日に北海道・札幌ドームで行われた日本ハムファイターズとのオープン戦はチャリティマッチとして開催された。2日には「見せましょう、野球の底力を」と当時選手会長を務めていた嶋基宏選手(現・東京ヤクルトスワローズ)がスピーチし、その力強い一言は全国へ発信された。そして、3日にはキャプテンである鉄平さんがマイクの前に立った。「その頃、考えていたことを自分の言葉にした」というスピーチは、鉄平さんの実直な人柄が滲み出たような言葉に溢れていた。以下に全文を紹介する。
『震災から数日経ったある日、僕に一通のメールが届きました。それは宮城県沿岸部の方からでした。“生きています。家も何もかも失ったけど、頑張って生きていきます。”それを聞いて僕は言葉を失いました。でも“野球が開幕したら、野球で被災地に元気や勇気をそして笑顔を届けてください”とも言われました。震災が起きてまず考えたのは一人の人間として何ができるのかということでした。そして今、野球選手として何をすべきか、どうあるべきかを考えています。日本の歴史の中で、今年は特別な意味を持つ一年になると思います。野球界が、選手が、ファンの皆さんがこの歴史の中で果たせる役割は何でしょうか。皆さん、共に被災地への有形、無形の支援をよろしくお願いいたします』
本拠地ホーム開幕戦でファンの声援に応える選手たち
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2011年にチームの初代キャプテンとしてプレーする鉄平さん
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被災地を訪問し、継続的な支援を誓う
楽天イーグルスの選手たちが、仙台へ帰ってくることができたのは震災発生から約一カ月が経った4月7日のことだった。その翌日、選手や監督たちはすぐに4班に分かれ、県内の被災地を訪問。鉄平さんは津波で甚大な被害を受けた女川町へと向かい、サインパネルの贈呈や声掛け、握手会など地域の方々との交流を図った。当時、鉄平さんは「テレビや新聞では見ていましたが、実際に自分の目で見る事で改めて被害の大きさ、事の甚大さを感じました」「僕たちが逆に勇気づけられ、どっちが応援してもらっているかわからないほど、心強かったです」と報道陣に語っている。さらに開幕前日の記者会見で被災地を訪問した感想について問われ、「これで支援活動は終わりじゃない。これからも継続的にずっと支援していきたい」と、この頃からすでにその後の支援を見据えて答えていた。「女川を訪問したときには、まだビルの上に船が乗っかっているような状態だったので……。これから時間を掛けて復興していかなければいけないだろう、町を立て直すためにはこれで支援を終わりにしてはいけないと感じました」
そして、被災地からの声援を受け、2011年のシーズンをキャプテンとして戦った鉄平さん。「野球を通じて、何とか皆さんに元気になってもらいたい、笑顔になってもらいたいと思っていました。もちろん口で言うのは簡単で、そんな生ぬるいものではないということもわかっていましたが、自分たちのプレーを見て、少しでも前に進んでいく活力になってもらいたかったですね」
その2年後、2013年には無傷の24勝を挙げた田中将大投手などを中心にチームは勝利を積み重ね、球団創設9年目で初の日本一に輝き、被災地の人々を大いに勇気づけた。「ありきたりですが、『本当によかった』という声をいっぱいもらいました。皆さんの心に大きく残る優勝だと思います」
女川町でサインパネルを贈呈
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※写真は楽天野球団提供
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