青葉区内の38地区連合町内会長で組織される「仙台市青葉区連合町内会長協議会」は、各地区連合町内会相互の情報交換や行政との意見交換を通して、地域コミュニティ形成の活性化など、地域に共通する課題に取り組んでいる。
2000年より川平団地町内会会長、2002年より川平学区連合町内会会長を務め、2013年には仙台市青葉区連合町内会長協議会の会長に就任した島田さんは、川平地区で震災前より防災に関する様々な取り組みを実践してきた経験をもとに、川平における防災を青葉区全体に広めるべく啓蒙活動を行う傍ら、震災語り部として日本全国を駆け回っている。
震災の「学び」をこれからの防災にどのように役立てていくかについて、島田さんに聞いた。
宮城県沖地震を想定した防災計画が震災で役立ち
川平の事例が青葉区の防災を見直すきっかけに。
島田さんが住む青葉区川平は昭和40年代の大規模住宅団地開発により誕生した。川平は仙台市北西部に位置し、標高約100mほどの高台にある。以前から『川平は地盤が強固だ』と言われ、地震が起きても被害は少ないだろうと考えられていたが、震災で大きな被害を受けてしまった。
震災前から防災に関して独自に取り組む
発災時、地区内の至るところで信じがたい光景が広がった。場所によっては75cmもの段差が生じた箇所もあった。「川平は地下に沢が通っていたため、道路が割れたり、家屋が傾く被害がありました。建物は階が上に行くほど被害が大きく、瓦屋根はほぼ100%崩落しました。ガス管や水道管も破裂して、道路が川のように水びたしになってしまいました」
しかし、これほどの被害にも関わらず、初動対応が冷静だったのは、川平学区連合町内会が防災に関して震災前から様々な取り組みを行ってきた成果だと島田さんは分析する。2007年2月、川平学区連合町内会は自主防災行動計画を策定した。2009年から翌2010年にかけては、仙台市青葉区の「地域における災害対応計画策定モデル事業」を青葉区まちづくり活動助成事業の一環として実施。青葉区区民生活課をはじめ消防署や消防団などから防災に関する助言をもらった。これらの活動で中心的役割を担ったのが島田さんだ。「例えば川平では防災スタッフに鮮やかなグリーンのビブスを配布して、災害が発生した際ひと目で防災スタッフと分かるようにしています。また毎月1日を「町内会防災の日」と独自に定めて150本ののぼり旗を団地内に掲出していますが、こののぼり旗も災害時に家の前に掲げることで、その家に防災スタッフがいる目印になります。こういった具体的な取り組みを、今後は青葉区全体に広めていくべきだと私は考えています」
様々な活動を経て、川平学区連合町内会では震災の約1年前となる2010年4月に川平地区防災対策連絡協議会を立ち上げた。「今後発生することが予想される宮城県沖地震に備えて、地元の桜ヶ丘中学校や明成高校など様々な団体と一緒に毎月1回の定例会を開催しました。防災に関する講習会、研修会等を実施し、2004年に発生した新潟県中越地震を体験された方を招いて講演会も開きました」
川平では島田さんがリーダーシップを発揮しながら、独自の防災活動を進めていった。
災害時に防災スタッフが着用を義務づけられているビブスは、遠くからでもよく見える色合いだ
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川平では災害が起きると防災スタッフの家の玄関にのぼり旗が掲げられ、目印になる
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あらかじめ定められた防災計画に従い初動対応
宮城県沖地震を想定した防災計画は、震災時に功を奏することになった。発災直後から、島田さんはあらかじめ定められていた防災計画に従い行動を開始した。まず川平コミュニティセンターに地区災害対策本部を設置。発災から1時間余り経過した時点で、大勢の避難者が川平小学校に詰めかけたため、対策本部を小学校に移した。「実は情報が錯綜し、仙台市からの指定避難所開設指示が届きませんでしたが、川平小学校と協議して自主的に避難所を開設しました。これも防災計画に沿った対応です。ただ、小学校には非常電源がないため、発電機と投光器を早速手配しました。3月11日は本震に加えて余震が繰り返し発生し、大きな揺れが起きる度に避難した住民から悲鳴が起きたものです。夜になって、もしも体育館内が真っ暗だったらパニックに陥ったかもしれません。このほか、防災計画に基づき避難者カードも配っています」
川平学区連合町内会における防災計画が震災時に有効に生かされた事例を参考に、仙台市青葉区連合町内会長協議会でも防災への取り組みが活発化していくことになった。
防災計画に従い行動することの重要性を震災時に実感した島田さん
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