キーパーソンインタビュー

こころ穏やかな暮らしを支えていくため、
ゼロから始めたコミュニティづくり。
若林西復興公営住宅町内会「若林西せせらぎ会」
会長 大場 留理子さん

被災した人たちが同じ屋根の下に集うことになった復興公営住宅。何をどうすればいいのかもわからない状態で町内会が発足した。自ら副会長を引き受け、後に会長に推された大場さんは、あいさつや声がけなど小さなことから始めて、新しいコミュニティの日常を一つひとつつくってきた。これから先も、ほどよいふれあいがあり、こころ穏やかに長く続く暮らしを支える町内会づくりを目指す。

STORY 01

仮設住宅から復興公営住宅へ。
縁に導かれて新しい住まいが決まった。

地震発生時、大場さんは泉区のみやぎ生協黒松店で仕事をしていた。「お客さまがあまりいらっしゃる時間ではなかったのですが、お客さまにテーブルの下に入るように声を出して、揺れが収まるのを待っていたんです。そのうちにスプリンクラーが作動して尋常ではない状況なんだと思いました。“揺れはいつ止まるんだろう、早く止まってほしい”と祈るような気持ちでした」

被害を受けた借家から仮設住宅へ

大きな揺れが落ち着いたころ、来店客には安全確認のうえ退避してもらい、従業員にも帰宅指示が出たので、大場さんはすぐそばにある自宅に戻った。玄関ドアを開けると足の踏み場がないほど物が倒れて中に入れない状況だったが、日が暮れないうちに、玄関先と2階に上がるスペースをなんとか確保したという。「夜になって娘が仙台駅前の勤務先から歩いて帰ってきて、停電の中一緒に2階の窓から外を見ると、遠くの仙台新港の辺りで炎が上がっていたことと、真っ暗な中で星が輝いていたことを覚えています」
娘の携帯電話の情報で「仙台市の沿岸部で遺体が…」というニュースを聞き、「え!何が起こったの?」と思ったという。「津波が起こったということは一切頭の中になかったですね」

住んでいた家は壁や階段にひびが入り、玄関の床が割れるなどの被害があり、結局は大規模半壊の認定となった。「大家さんからは取り壊したい、できれば年度内に引っ越してほしい、と言われました。それが9月末ごろでしたから、急いで仮設住宅に移る準備をすることになりました。仙台市の窓口に相談し、ペットと一緒に住める若林区の六丁の目中町西公園仮設住宅への入居を決め、そこに娘と犬と一緒に引っ越ししたんです。それがもう12月でした」

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震災後、被害を受けた自宅から仮設住宅へ、さらに復興公営住宅へと引越を重ねた大場さん

被災地に近い勤務先での体験

仕事の方は、働いていた黒松店が改修工事に入っていたため、名取西店に異動になった。ここは津波被災地に近いエリアにあり、大場さんは名取西店に勤務して初めて津波被災地の現実に向き合った。「出勤のとき東部道路を使うようになって、そのときに初めて沿岸のほうの被災状況を目の当たりにしました。2階に車が突っ込んでいたり、広範囲に津波の恐ろしい痕跡が残っていて、そこに住んでいらした人たちのことを考えると胸が締めつけられるような気持ちでした」
被害の大きかった閖上地区の仮設住宅に入居した人たちが来店することも多かった。「私は共済担当でしたので、被災された方のお見舞い金の請求受付などの仕事をしましたが、被災時の過酷な状況を聞く度に涙があふれました。よく生き残りましたね、お会いできてよかった、とお話するばかりでした」

復興公営住宅で生活の再建を目指す

翌2012年の2月ごろに、担当職場が高砂店に変わった。「高砂地区は子どもの頃に住んでいて、同級生がいっぱいいるんですね。蒲生地区や岡田地区の辺りもよく遊んだところでしたが、震災後は怖くて行けなかったんです。だけど同級生はみんなどうしてるだろう、どこかで生きて無事に過ごしているだろうか、というふうに思っていました。近くの仮設住宅や借り上げ住宅などに住んでいる方たちが、『誰々ちゃんは大丈夫だよ』とか、みんなの消息や地元の情報を知らせてくれたので、みんな頑張っているんだなと思って、自分も頑張っていこうという思いでいました」

その後、復興公営住宅の入居申請の案内が仙台市から届いた。当時住んでいた仮設住宅のすぐそばの復興公営住宅も検討したが、仙台市の担当者や、復興公営住宅周辺の住民のアドバイスを参考にして、最終的に大場さんは「若林西」を申請し、入居することになった。「仮設住宅暮らしに限界を感じ始めていた時期だったので、引越をして新しく自分の生活を立て直したほうがいいかなという思いがありました」 勤務先の異動も住む場所も、縁に導かれて進んでいくようだったと、大場さんは感じている。

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3棟から成る若林西復興公営住宅。建物の背後に広瀬川の堤防がある。