キーパーソンインタビュー

独自の支援活動を通じて
被災者の心の復興に貢献。
広瀬川倶楽部 
代表 坂上 満 さん(写真左)
副代表 悦木 敏行さん(写真右)

坂上さんと悦木さんが代表を務める市民団体「広瀬川倶楽部」は、東日本大震災の被災者のため、支援物資の調達から仮設住宅でのダーツ交流会まで、多岐にわたる活動を行ってきた。
人とのつながり、そして笑顔を大切にした支援活動は、現在進行形で「心の復興」に大きく貢献している。

STORY 01

広瀬川倶楽部会員とともに、
独自の支援活動を展開。

職業・年齢・役職・性別を問わず、会員相互の親睦・交流を図ることを目的として2000年に仙台市で発足した「広瀬川倶楽部」。代表の坂上さんと副代表の悦木さんは、ともに広島県出身者だ。ふたりとも仕事の転勤をきっかけに、仙台市での暮らしが始まったという。
「2011年当時、悦木さんはまだバリバリ仕事をしていましたが、私は仕事を退職したところでした。時間も体力もまだまだあって、『さあこれから自由に過ごすぞ!』というときに、東日本大震災が起きたんです」と坂上さん。
坂上さんには、「広瀬川倶楽部」での交流などを通じて仙台市に多くの仲間たちがいた。「困りごとなど何でも情報交換をしてお互いに助け合おう」と呼びかけたところ、津波被災地への食料・衣類等の様々な支援要請が届き始めた。幸い会員に食品メーカー勤務の方々が大勢いたおかげで、すぐに大量のスティック味噌汁や缶詰、肉製品、蜂蜜、カップラ-メンといった支援物資提供の申し出があり、会員が手分けして被災地へ届けることにした。宅配便が復旧すると同時に、広島県や首都圏などの知人に津波被災地の惨状を発信し、衣類や食品などの支援を呼びかけたところ、その輪は知人から知人へとどんどん広がっていき、広島県に拠点を構える中国新聞社の記者の目にとまる。「ぜひ新聞記事で紹介させてほしい」と記者から連絡をもらったのは2011年3月末頃だった。
「故郷・広島の新聞で紹介してもらえるならばと、当時悦木さんが会長を務めており、私も所属していた『みやぎ広島県人会』の肩書きで記事を作っていただきました。被災地で不足しているスコップや長靴をはじめとする物資を支援してほしいという内容の記事だったのですが、呼びかけの記事が掲載されるやいなや、150人くらいの方々から支援希望の連絡をいただきました」
坂上さんは、そのあまりの反響の大きさに驚いたという。

新聞記事から広がった支援の輪

坂上さんの新聞記事は口コミでも広がり、支援物資を送ってくれる人はどんどん増えた。しかし、新聞に掲載した問い合わせ窓口は坂上さん個人の携帯電話の番号のみ。支援を希望する電話が四六時中鳴り響いた。あっという間に手が回らなくなり、「広瀬川倶楽部」のメンバーに頼んで手配関係は分担することにした。
「電話をくださったのは年配の方が多かったです。『自分も何か支援したい』と思いながら、情報が得られずもどかしい気持ちでいたのでしょう。そこに私の記事が載ったことで、広島の方々が一斉に注目してくれました」と坂上さん。
新聞記事が載ったのは4月10日。その3日後から続々と支援物資が届き始めた。それを見越して支援物資を保管する場所は会員の協力である程度確保していたが、実際の量は予想をはるかに超えていた。
「支援者の方々には、『支援物資がダンボール1〜2箱だったら私の家に送ってください。3箱以上は保管のための倉庫へ直接送ってください』とお伝えしていました。ですが新聞掲載から3日後、家にいる妻から電話で『たった今、ダンボールが20箱届いた』『また30箱も来た』って言われて驚きました。『うちはマンションなのにこの荷物どうするの』って(笑)。これは大変だと思って、仲間に急遽取りにきてもらって、急いで避難所などに分配しました」

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それまでボランティアの経験は全くなかったという坂上さん。ノウハウがない中で、最適な支援方法について模索し続けた

「顔の見える支援」で生まれたつながり

支援物資を届けるにあたり、坂上さんが心がけていたことは「お互いの顔が見える支援」だ。とある町内会の自治会長から言われた「送られてきた支援物資を誰が広げて、誰が分配するのか。被災者にそんな暇はない」という言葉がきっかけだった。「被災者と支援者、お互いの立場や状況がわからないことで支援が滞ってしまう。顔の見える支援が必要だ」と坂上さんは感じたという。それから、自分の車に支援物資を載せて宮城県内を走り回る日々が始まった。2年で車の走行距離は5万キロを超えた。ほとんど休まず1年間走り続け、いつしか仮設住宅や町内会などに約50ヶ所の支援ルートができていた。
直接避難所を訪ねることで、被災者が必要とするものを聞き取ってリスト化し、そのリストに沿った支援物資を支援者から送ってもらうことができた。さらに坂上さんは、支援物資に一言励ましのメッセージを書き添えてほしいと頼んだという。
「このメッセージのおかげで、誰がどんな物資を送ってくれたのか、被災者の記憶に残るようになります。そうすると後日、被災者から電話やハガキでお礼の連絡が行くんですよ。支援者と被災者、人と人とのつながりが生まれますよね。支援者は自分の支援物資がしっかり役立っていると実感することができます」
2011年の10月に中国新聞で二度目の呼びかけを行ったところ、約550人から電話がかかってきた。たった一人で全てを処理するのはすさまじい労力が必要だったが、坂上さんの熱意が多くの人の目にとまり、様々な人脈を結んでくれたという。坂上さんが届けた個人からの支援物資は約2万箱以上。のべ約4000人が坂上さんを介して被災地支援を行っている。

福岡県ダーツ協会との出会い

2012年4月、支援活動を続けていた坂上さんのもとに、NPO法人「福岡県ダーツ協会」から連絡が入る。同協会が拠点を構える太宰府市は多賀城市と友好都市関係を結んでおり、「被災した多賀城市の方々をダーツを通して元気づけたい」と行政へ相談したが多忙で手が回らず、坂上さんの評判を聞きつけての申し出だった。2泊3日で来るという「福岡県ダーツ協会」の方々のためにコーディネートを快諾した坂上さんは、自身の支援ルートだったいくつかの仮設住宅とコンタクトをとり、ダーツ交流会を開いてもらうことにした。
「私は多忙でしたので交流会の最終日だけ立ち会いましたが、被災者の方々が楽しそうで、すごく盛り上がっているなと思いました。それで、ダーツ協会の方から『ダーツの道具を坂上さんに預けるから、交流会を続けてくれないか』なんて言われましてね。当時は支援活動で忙しかったから『こればかりは無理ですよ』と断ったんですけど、頼まれたら断りきれない性分なので、とりあえずということで道具を預かりました」
これが、坂上さんとダーツの出会いだった。

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ダーツ未経験、ルールも知らなかった坂上さんがひょんなことから道具を預かり、ダーツ交流会の主催者になった