東北の外から人を呼び、東北の人と共にみんなで楽しむことができる「東北風土マラソン&フェスティバル」を立ち上げ、成功させた竹川さん。「復興の次のステージは、震災をきっかけに顕在化した地域課題を解決していくステージ」と考える竹川さんの、目下のミッションは「東北の課題を解決して、東北をもっとよくしたい、そしてその課題解決モデルを世界に発信していきたい」という心意気にあふれた次世代の社会起業家を育成すること。そんな人たちと、新しい東北づくりのために、共に走り続けている。
日本人の一人として何かしないと…
その思いからニューヨークで活動を始めた。
「私が東北と関わりを持つようになったのは、震災が発生した後のことでした」と竹川さん。証券会社に勤務しロンドンオフィスに赴任した後退社、30歳にして独立起業した。2011年からはインターネットサービス会社に在職。「4月にニューヨークでアメリカ法人を立ち上げることが決まっていて、その準備のために東京とニューヨークを行ったり来たりするという生活をしていました。3.11が起こったのは、東京にいた時でした」
自分のふるさとは、日本
竹川さんは東京銀座のオフィスで震災に遭った。「東北での揺れとは全然比べものにはならないと思いますが、自分自身にとっても人生の中で圧倒的に大きな揺れで強烈な印象が残っています。その日の夜、歩いて帰る途中、道が車と人で埋め尽くされて身動きがとれなくなっていたり、コンビニの商品があっという間になくなっていたり、そんな状態でした」
法人立ち上げのために、ニューヨーク便のチケットを取っていた竹川さんは、その3日後に日本を離れた。「当時、震災直後に日本から出る人というのは、日本にいるのは危ないからと思って出ていく外国人などが多かったので、自分も何か大切なものを置いて日本から出て行ってしまっているような後ろめたい気持ちで飛行機に乗った、というのをすごくよく覚えています」
しかしニューヨークに着いてみると、竹川さんはもっと強烈な体験をすることになる。「衝撃的な津波の映像ばかりがCNNなどのテレビで放送されていたのです。タクシーのドライバーからホテルのフロントの人まで、日本人だと知るだけで『あなたは大丈夫なのか』、『あなたの家族は大丈夫だったのか?』と聞かれました。同時に、世界中の友人からメールやSNSなどで『大丈夫か?』という安否確認の連絡をもらう中で、私の故郷は生まれ育った『横須賀』というより、『日本』に変わったんです」
世界から見たら同じ日本の中で起こった衝撃的なできごとだったのだ。
「日本人の一人として何かしないと、何かできることはあるんじゃないかなと感じざるをえない環境でした」この「日本人として何かをやりたい」という気持ちがその後の活動を始める原点になっていると、竹川さんは話す。
ニューヨークに着いた時、「自分の故郷は日本、日本人の一人として何かしないと」と感じたという
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海外のネットワークで寄付金集め
大学に入った当初は開発途上国支援の仕事を目指していたという竹川さん。「困っている人を助けたい、笑顔を広げたい、という気持ちがもともと自分の中にありましたが、震災当時の東北の状態を見るにつけ、今こそ行動すべきと感じました」竹川さんはニューヨークで、東北の被災地への復興支援の活動を始めた。最初は、ニューヨークでもできること、と考えて寄付金集めを企画したという。復興支援のNPOをいろいろ調べたうえで3社にしぼって、そこに寄付金が集まる仕組みを仲間たちと一緒につくったのだ。
「多くの海外の友人が想いを届けてくれました。ハーバード・ビジネス・スクールのコミュニティ、ロンドン勤務時代の友人のコミュニティからも、何かできることはないか?と言ってもらっていたので、ぜひ寄付をしてもらいたいとお願いのメッセージをしました」結果的には3社合計で数千万円を集めた。
世界中から集まった支援の輪をうれしく思う一方で、竹川さんはなぜかその後で無力感のようなものを感じたという。1つには、当時ニューヨークを拠点にしていたために、被災地が見えるところで身近な支援ができなかったこと。もう1つは、自分の大切な人たちから預かったお金を第三者に託しているという状態であること。
「お金が有効活用されていると信じられるNPOを選んではいましたが、実際の活用先を確かめることもできませんし、寄付してくれた友人などに多くを説明できないという状態がもどかしかったです」
さらに口惜しかったのは、自分自身も独立起業して小さいながらも「経営者」として仕事をしている中で、他の誰かに大切なお金の活用を任せてしまっていたこと。「自分自身で責任をもって、何かできないものか」と痛切に感じたのだという。
海外ネットワークを活用して仲間と共に東北への復興支援活動を始めた竹川さん
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