造園業を営み、ガーデニングの提案やまちの緑化活動などを続けてきた鎌田さん。自身が経営する園芸店や植物園は東日本大震災によって大きな被害を受け、一時期は会社の方向性を見失ってしまうほどの大変な経験をしたという。しかし震災後も花と緑のニーズは絶えず、鎌田さんの元には支援を求める声が多数寄せられた。約10年経った今も被災者の笑顔のため、花と緑を通じた復興支援を継続している。
被災者が花と緑のある暮らしを
取り戻せるように。
仙台市泉区で造園業を営んでいる鎌田さん。震災時は自身も被災したにも関わらず、津波被害が大きかった沿岸部などに積極的に足を運び、被災地のためにできることを模索していたという。時間の経過とともにまちの再生が進み、被災者を取り巻く環境は変化した。支援のニーズも少しずつ変わってきたため、鎌田さんは人々の需要に応じて様々な事業を提案していった。
震災直後から被災地の視察へ
震災により、鎌田さんが経営する園芸店や植物園は甚大な被害を受けた。土砂災害などで半壊した建物やガーデンの対応に追われ、しばらくは経営規模を縮小していたという。
そんな中、昔から仕事で縁があったガーデニング関連の出版社や放送局、地域の生産者などから「これだけひどい状況の中でも、何かできることはありませんか?」と声を掛けられ、自分に与えられた使命を精一杯考えるようになった。生まれた答えはシンプルに「被災地に花と緑をもたらし、人々に笑顔を届けたい」ということだった。
鎌田さんは、支援の方向性を固めるためにも被災状況を把握しようと、まずは東北各地の被災地を視察することにした。
現地で目にしたのは花と緑が失われ、廃墟と化したまちの姿。沿岸部には津波の勢いで引きちぎられたバラのアーチや、ヘドロに埋もれたレンガの花壇など、見るに耐えない光景が広がっていた。
鎌田さんは「若いころから園芸について研究しており、大学生の時は環境問題などを学ぶため、オランダを訪れたことがあったんです。そこで見た色とりどりの花が咲き乱れる公園や、住まいの庭先に咲く可憐な花々に『なんてきれいなのだろうか』と当時はとても感動しました。その景色が忘れられず、長い間、花と緑がいっぱいのまち並みを夢見て、多くの人に植物を取り入れた暮らしを提案。地道に努力を続け、各地に少しずつガーデニング文化が広がっていくのを感じていましたが、今まで積み上げてきた努力が震災によって簡単に壊れてしまいました。ガーデニング産業を未来につなぐためにも、震災前以上に花と緑があふれる景観づくりに努めなければならないと強く感じました」と話す。
「花と緑の力で3.11プロジェクトみやぎ委員会」を設立
鎌田さんは被災地を支援するため、震災から約1カ月後に「花と緑の力で3.11プロジェクトみやぎ委員会」を立ち上げた。メンバーは、地元の造園建設組合や花卉園芸組合など園芸に携わる有志だ。組織ができたばかりのころは、被災地では具体的にどのような要望があるのか、避難所生活を送る人々に直接聞いて回っていた。
「震災直後はみんな自分の命を守ることに必死で、当然、花と緑どころではありませんでした。ところが1カ月も経つと、少しずつ被災者の生活が落ち着いてきて、避難所での過ごし方をもっと充実させたいという人が増えてきたんです。特に屋内で過ごす時間が多い高齢者は一日中じっとしていることに苦痛を感じているようだったので、プランターを届けて花の寄せ植えを一緒に行いました」
最初の支援は、岩手県陸前高田市の避難所からスタート。被災者たちは花とふれ合い笑顔を浮かべていたという。「被災者の喜ぶ姿を見て、この支援をして素直に良かったと思いました。ジョウロで水をかけるおばあちゃんの笑顔が忘れられません」
避難所では水が貴重だったため、避難所の責任者と相談しながら、可能な限り支援を続けた。
その後、被災者は少しずつ避難所から仮設住宅や復興住宅へ住まいを移行するようになった。これに伴い、プランターを使った花の寄せ植えから、花壇造りに支援の形が変わっていった。「仮設住宅の集会所の周りに花壇をつくり、入居者みんなで花の手入れを行えるような仕組みも作りました。そうすることでお互いに顔の見える関係性ができ、コミュニティの再構築に貢献できると思ったんです」
花とともに野菜の需要もあったため、ベジタブルガーデンを作る支援もしていたという。
若林区荒井の復興公営住宅前に作ったガーデン
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