キーパーソンインタビュー

復興と同時に6次産業化に踏み切り、
新しい時代の農業の道を切り開いた。
農事組合法人 仙台イーストカントリー 代表理事 佐々木 均さん

農地、組合施設、自宅が津波で被災したにもかかわらず、誰もが諦めの中にいた震災後の5月に、佐々木さんは、かろうじて浸水を免れた農地に田植えを行って復興を開始した。同時に、米の生産とともに食品加工と販売も事業化して、次世代農業をスタートさせた。「地域の農業を少しでも早く再生させたい」という使命感を胸に、ここまで突き進んできた。これまでの10年の積み重ねを糧に、さらにその先の明日を見つめる。

STORY 01

被災を免れた農地を支えに
諦めることなく立ち向かった。

農事組合法人仙台イーストカントリーは、仙台市若林区神屋敷地区で水田を中心とした約63ヘクタールを営農していたが、東部道路東側の農地と組合施設、佐々木さんほか組合員の自宅もすべて津波被害を受けた。農業者が再び立ち上がれるような状況ではなかったが、被災を免れた農地があったことと、組合施設にわずかに味噌が残されていたことを足がかりとして、佐々木さんは農業復興に向けて動き始めた。

語り継がれていた浪分神社の伝承

佐々木さんは、外出先から神屋敷地区にある自宅に戻ってきた直後に地震に遭い、ただならぬ揺れに「これは津波が来るな」と直感した。屋根瓦が落ちたり、多くのものが倒壊したが、車は動かせる状態だったので、家族9人が2台に分乗して、近所の人に「逃げろ」と声をかけながら、霞目方面に向かった。「母が霞目出身で、津波の時は必ず飛行場まで逃げろと言っていたということを聞いていました」
飛行場の近くに江戸期の津波の伝承が伝わる浪分神社がある。海の神が降臨し、襲い来る大津波を南北2つに分断して鎮めたとされ、その津波が分かれたところに神社が鎮座しているという伝承を持つ。その話を聞いていた佐々木さんは、津波の時には霞目まで逃げる、というシミュレーションを頭の中でしていたという。「だから迷うことなくまっすぐに逃げて、津波から助かりました」
沿岸から押し寄せた津波は、農地も施設も住宅もすべてを飲み込みながら内陸まで進み、高台を走る東部道路が防波堤の役割を果たしたが、一部では東部道路の西側まで海水が流れ込んだ。東部道路の海側にある神屋敷から、東部道路を越えてさらに西側の霞目方面に逃げるのは、理にかなった避難だった。
「夜中に、家や組合がどうなったのか確かめようと思って戻ろうとしたけれども、途中からガレキと泥水で進めなかった。これはだめだ、と引き返す途中で友人の家を見つけたんです。そこは水をかぶっていなかったので、ハウスの中でもどこでもいいのでとお願いして、結局私たち家族で身を寄せて、世話になることになったんです」

生きて続けろという言葉を胸に

水が引いてから自宅の様子を見に行ったところ、1階は津波によりガレキと泥が入ってきていた。2階はなんとか入れる状態だったので、昼は1階のガレキと泥の片付け、夜は2階で寝るという生活を続けた。初めて明るいところで沿岸の方を見たときに、佐々木さんは天を仰ぐばかりだったという。農地は全滅、組合の建物・設備も全壊。トラクター、コンバイン、田植機、精米施設もすべて流された。組合のメンバーの家も全部被災した。1週間ほどして、亡くなった先輩や友人がいることがわかった。何もかもなくし、壊れた家をどうするか、家族をどうしようかと悩み、内心、農業をやめようと思っていた時だ。夜、なかなか寝つけない時に、ふとその人たちの顔が浮かんだ。「その顔を見たときに、これからここの農地をどうするんだ、お前は生きて続けろと言われてる気がした。なんとかしなくちゃいけないんだなという思いがだんだん湧いてきたんだよね」
その後は、家と組合の掃除から家の外のガレキの撤去まで、必死にやり始めた。幸い、組合の倉庫の上の方に水を被らなかった米が何袋かあったので、友人のところに持って行って、それでみんなで食べつないでいた。周辺で捜索活動が始まった時に、消防団が近くのポンプ小屋に朝早く集合して、そこから捜索に行っているようだった。「あの人たちにおにぎりを食べてもらおうと思って、妻が朝早く起きておにぎり作って届けた時期もありましたね」

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現在の農地で、震災直後の状況を振り返る佐々木さん

残された農地と味噌を支えに第一歩

何もかもなくしたと思っていたが、組合の味噌蔵にあった味噌が奇跡的に助かったのと、東部道路の西側に被害を免れた約16ヘクタールの農地が残った。このことが佐々木さんの気持ちに大きな望みを与えてくれた。なんとかやり直してみようかと思えたのも、それがあったからだ。
「水をかぶらなかった農地で農業を再開しよう」そう考えた佐々木さんは、田植え時期を前に、組合のメンバーに集まってもらった。「農業を続けるか、法人を解散するか、どうする?」と聞いたら、8人のうち6人は「もう農業はやれない、とても私らには無理」という答えだったという。まだ1カ月ちょっと経ったばかりで、みんな呆然としてやる気をなくしている状況だったから、無理もない、仕方のないことと、みんなの考えを理解し、「戻れるのだったらいつでも戻って」と伝えた。それでも、佐々木さんともう1人の同級生の理事が「誰かが最初になってやるしかない、なんとか残ったところで歯をくいしばって作るべ。法人としての責任を果たすには、とにかく米を作ることだ」という話をしたのだという。

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震災以前から造られていた「神屋敷味噌」。味噌蔵は水に浸かったが、味噌樽の中身の味噌は無事だった