キーパーソンインタビュー

地域全体で災害から身を守る大切さを
若い世代にも広げていきたい。
南材地区町内会連合会 会長 菅井 茂さん

来る宮城県沖地震に備え、2005年に仙台市の総合防災訓練地域に指定されていた、仙台市若林区の内陸にある南材地区。東日本大震災では地域住民が他地域の津波被災者と協力して避難所運営に尽力した。決して簡単なことではなかったが、地域住民と津波被災者の心をつなぐ生活がそこには確かに存在した。未曾有の災害でも常に冷静に物事を判断し、避難者のために奔走した菅井さん。そこで見て、感じた、災害時だからこそ大切にしたい地域力とは――。

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たくさんの仲間に支えられて、
助け合う「人のチカラ」を感じた。

鳴子温泉を訪れていた菅井さんは、その帰り道、車から放り出されそうな激しい揺れに襲われた。電話はつながらず、高速道路も不通。車中を覆う焦りと不安。家族は、自宅は、地域は無事だろうか。その一心で帰途についた。やっと到着したとき、時刻は午後6時を回っていた。
家族の無事を確認し、安堵に胸を撫で下ろす間もなく、町内の被災状況を確認して、南材地区の避難所の一つとなっている仙台市立南材木町小学校に向かった。町内会連合会副会長として、地域の状況をいち早く把握しなければならない。午後7時過ぎに小学校の体育館に到着してみると、地域住民たちが家族や知人同士で小グループを作り、身を寄せ合っていた。「状況を確認したところ夕食の配給がまだだったようなので、クラッカーや水を配りながら避難者の数を確認しました」
当日の夜は905名。しかし翌朝には、その数は1200名にまで膨れ上がっていた。
このままでは自分たちだけで対応することはできない。すぐに避難者に対してボランティアを募集した。「ボランティアをしてくださる方は申し出てください」
最初に名乗りを上げてくれたのは2人の若者と中年の男性。そして避難者の健康をチェックしてくれる看護師たち。こうして、南材木町小学校での避難所運営は始まった。

南材地区で運営した3つの避難所

南材地区の避難所は、南材木町小学校だけではなかった。八軒中学校もその一つだ。「当初、私は小学校での避難所運営に携わっていました。中学校に関しては教員の方々に全てお任せしていたのです」しかし事態は一変する。「八軒中学校で、市内沿岸部の津波被災者を受け入れることが決まったのです。12日の午後には荒浜地区、13日には中野地区の被災者が次々到着しました」

そしてもう一つ、南材コミュニティ・センターにも臨時の避難所が設けられた。「小学校や中学校に避難してきた方の中には、子どもの夜泣きが周囲に迷惑をかけてしまうかもしれない、と肩身の狭い思いをする方もいました。そうした方々の要望に応えるため、指定避難所ではなかったコミュニティ・センターを開放し、希望者を受け入れることにしたのです」
それぞれの避難所を、南材地区自主防災連合会の会長と3人の副会長で分担して運営にあたることが決まった。

自主防災連合会副会長(当時)であり、八軒中学校同窓会の会長でもあった菅井さんは、こうして八軒中学校を担当することとなる。もちろん、津波の恐怖を目の当たりにした被災者への対応は、決して簡単なものではなかった。

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南材木町小学校には約1200名、八軒中学校には津波被災者を含め約510名、コミュニティ・センターには約60名が避難した

被災レベルの異なる避難者たちへの対応

津波の被害にあった方の中には、あまりの被害の大きさに、自分の経験を話せる状態ではない方も多かった。デリケートな問題だが、避難所運営はそうした問題と真正面から向き合わなければ成り立たない。
「被災者が何を求めているのか、避難所に不満や要望はないか、といったニーズを把握する必要がありました。そこで、避難してきた地元住民と津波被災者の中からそれぞれ代表者を選び、避難所運営委員会の中で定時的に意見交換会を実施しました」

このとき感じたのが、人々の助け合う力だった。「被災者から、移動するために自転車が欲しいという要望がきたときのことです。南材地区のスーパーなどに張り紙をしたところ、すぐに15台の自転車が集まりました。また、被災者の中には農業を営む親戚に相談して野菜を持ってきてくださる方もいて、避難所としてとても恵まれていると感じましたね」

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避難所運営委員会で意見を集約し、運営に生かした

避難所を支えるのは、避難してきた人たち

避難所だからといって避難者は何もしなくていいというわけではない、というのが菅井さんの持論だ。「避難所はホテルではなく、一時的とは言え自分たちの『家』なのだから、自分たちで運営していかなければならない。食事を用意するのも避難所を掃除するのも、ボランティアに頼るのではなく自分で動くことが重要と考え、避難者に仕事をしてもらいました」運営委員会での意見交換もその延長だ。避難者同士が話し合うことで自分たちに必要なことを確認し、どう行動すればいいのかを考えることで、避難所生活をよりよいものにしていくことができる。
「少なくとも津波で被災した方々にとっては、避難所での仕事を通して気持ちを紛らわすこともできたのではないかと思います。地元住民は10日程度で自宅に戻ったので、それからは津波被災者の方々に一任し、私達はサポートに徹しました」配膳や掃除を手伝い、避難者同士でコミュニケーションをとることは、津波被災者にとって一時の安寧であり、辛い現実と向き合い前に進むための活力にもなっていたのかもしれない。

避難所運営があらかた終了し、市内中心部が徐々に日常を取り戻していた2011年4月末。菅井さんたちに喜ばしいことがあった。
「八軒中学校に避難してきていた中野地区の方々が、八軒中学校への感謝を込めて学校の敷地に3本の桜を植樹してくれたのです。あれは本当にうれしかった。当時お世話になった中野・荒浜地区の方々とは、今も交流が続いています」

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感謝のこもる桜が美しく咲き誇る姿が毎年の楽しみになっている