STORY 02

座して待つことよりも
農作業ができることを選択した。

避難所で実践した情報交換と行動力

三浦さんは、避難所暮らしをする間も、このまま座して待つわけにいかないと思ったという。他地区の農家の人やJAの人とも今後について情報交換もしていた。「こういう時は、人としゃべって、動かないとダメだ。なにくそ!という気持ちでやってきた」
そうした中で得られた情報があった。ほぼ浸水を免れた、藤塚地区の内陸側の日辺(にっぺ)という地区は、営農組合が河川敷に10ヘクタールほど田んぼを持っていて、転作分の3ヘクタールほどを貸すという話があった。さらに、JA仙台から、6月から翌年3月まで少し遠方のハウス10棟を貸し出すという提案もあった。三浦さんは「だったら個人で農業をやるより共同でみんなでやったらいいんじゃないかと、ほかの農家と話し合った」

4月、5月と話し合いを続け、最終的に藤塚・種次・井土の農家10人が参加することになった。早く農業を始めたいと考えていた三浦さんが選択したのは、被災地外の畑とハウスによる野菜栽培だった。震災後、被災農家に対する様々な復旧支援事業や補助金制度が設けられたが、それを受けるためには原則的に3戸以上など農家の集団化が求められた。こうして農家10人による集団営農組織「イーストアグリ六郷」を、震災後わずか2カ月の5月末に立ち上げ、農業を再開した。

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震災後、藤塚・種次の農地がこの先どうなっていくのか、三浦さんは考え続けていた。写真は現在の雪菜畑

かつて農業を営んだ地区での復興へ

当面の農業をかつて暮らした地区の外で3年ほど続けたが、ここでの働き方は大変だったという。集団営農組織は基本は会社と同じで、必要経費を払い、収益に見合った賃金の分配がある。「日辺から借りる3ヘクタールの土地は、転作で大豆を作ると一反いくらと料金がかかるし、JAから借りるハウスも一棟いくらと賃貸料がある。ハウスの土も畑に向いてなくて大変だった、よく作ったなと言われた」

辞めたいという人、一人でやりたいという人も出てきた。「ほかの土地で農業を続けて苦しい思いをするのなら、自分たちの地区で農業を復興させるために働くことを選びたい」三浦さんの気持ちは、そんな方向に動き始めた。三浦さんたちの地区にはもともと農事組合法人になる前の任意組合としての「六郷南部実践組合」があり、多い時は10数人のメンバーがいた。代表ではなかったが三浦さんも所属していた。藤塚と種次地区の転作組合で、麦や大豆への転作を共同で作業していた。震災直後はイーストアグリ六郷として農業を行っていたが、「自分たちの農地の復興をするなら、この組合で元気に動くしかない」と組合の活動に専念することにした。

ほ場整備と農機リースで、営農が復活

仙台市は発災から1カ月も経たない3月末に復旧のための塩害調査を行い、7月からは農地のガレキ撤去を開始し、年内いっぱいで完了させた。国は排水機場の復旧、ヘドロ除去、盛土、用水路の復旧、水田の除塩作業などを行い、被災農地の復興が大きく進んだ。大規模なほ場整備が国の直轄事業で進められることが決まり、仙台市はほ場整備事業の農業者負担分を全額負担することを表明した。
ほ場整備に向けての話し合いの中で、三浦さんは「ここで農業をやりたい。何もない私たちがここで農業ができるように、支援してほしい」と働きかけた。
「最初の話では、国の整備事業でも全額国の負担というわけではなく、地元負担分というのがあったんだ。何回も説明会や会合があったね。私たちもほ場整備には大賛成だけれども、何もかもなくした上に自分たちで負担してマイナスからスタートするのなら、ここから農業を担っていく気力がおきるわけがないと、主張した記憶がある」と三浦さんは振り返る。

「復興事業で、またこの土地で営農ができるようになって、まずは安堵した。 仙台市からトラクター、田植機、コンバインなどの大型農機や、ハウスの施設など無償で借りられたほか、六郷ライスセンターが利用できるようになり、本当に助かった」と三浦さんは話す。

「任意組合で残っていたメンバーは、真剣に六郷南部の、藤塚と種次地区のこれからの農業を考え始めていたね。このメンバーがそのまま法人化の土台になった」2015年には組織を再編し、農事組合法人「六郷南部実践組合」を設立した。

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レタス畑の前で。奥に見えるのがかさ上げ整備された名取川の堤防
STORY 03

担い手が今後も続けていくことができる
農業のあり方を探して。

新しい営農のために少しずつ工夫を

2020年4月、三浦さんは六郷南部実践組合の組合長に就任した。前組合長から、この組合をより元気に前に進んでいけるような力強いものに、という意志を引き継いだ。組合の営農作物としては、水稲が62ヘクタール。転作大豆を27ヘクタール受託している。畑は枝豆3ヘクタール、レタス・雪菜・小松菜・ホウレンソウなど葉物が3.5ヘクタールくらい。整備されたほ場は、これらの作物で現在フル稼働している。田んぼは非常に状態がよく、畑の方はまだ改善の余地があるという。「しょうがないことなんだけれども何回も重機が入ると畑の土が固くなるし、山砂が入っていると水が浸透しない。土を交換したり、土中の水はけをよくしたりする対策をしているけれども、そういうエ天を、ちょっとずつしていかないといけない」

「藤塚・種次は昔からレタスとか雪菜など葉物野菜が多かったね、川のそばの土が葉物に合っていたんだね」と三浦さんは話す。現在の営農の方針として、少しずつ土の手入れをしながら、いろんな作物を通年で出荷できるように工夫して、年間を通して安定経営ができるように、と考えている。米は年に1回の売り上げなので、米と畑のバランスを見ながら、畑をいつどの作物で稼働させるのがいいのか、出荷量と売り上げ予測を考えて計画を立てないといけない。「レタスは春から採れるでしょ、夏は枝豆、秋は米と大豆、冬は葉物をちょっとずつずらして、種蒔きと収穫を調整するのが大変だけれども面白いね」
三浦さんは組合長として、毎日事務所でみんなを集めて朝礼を行う。「例えば稲刈りを3人でコンバインでやる時にどういう段取りにするのか。畑とかほかの作業を組み合わせると、複数の作業を並行して行う必要があるから、それぞれの段取りを考えて朝礼で調整して決めるのだけども、今はまだ全部私が考えなければいけないので大変だ」と笑う。みんながその日の動き方を自分で段取りできるようになれば、農業はもっと面白くなるという。

若い世代の人たちに託す組合の明日

「組合の理事は現在6人。そのほか社員3人と事務員1人。事務員さんは、パソコンや事務関係が強いので、私たちも安心して働ける」
地区で言うと、藤塚が4人、あとの2名は種次。組合を立ち上げた時から種次と藤塚で一緒にやってきたため、お互いの気持ちもわかっている同志のような間柄という。

「でももう自分は71だからね」一番心配なのは後継者、と三浦さんは話すが、一方で組合が法人化されたことで単独の農家の場合よりも継続的な農業ができる可能性が広がったことも実感しているという。「うちもそうだけれども、理事の息子たちはみんなサラリーマンで後継者がいない。けれども集団で営農する法人であれば、たとえ地域外の人であっても、ここで立派に育ってもらえれば、私たちから次の50代以下の若い世代に託すことができる。60代、70代の私たちが元気でいる間に、この土地のことを十分に知ってもらい、私たちの意志をつないでいってもらいたいと思っている」
地域の堀払いや草刈りが年に4回ほどあるが、若い人たちにそういう集まりに参加してもらって地域の人たちと交流してもらうことなども考えているという。「若い人たちにすぐに地域のことを考えろといっても難しいけれども、ここがいつかまた昔みたいなおだやかな表情を本当に取り戻せて、いい土地だなと実感できるようになれば、自ずと地域を大切にする気持ちも出てくると思う」

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組合のメンバー。ただ法人の構成員としてではなく「同志」のような存在だ
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市のリース事業で導入したコンバイン。短時間での大面積の稲の刈り取りが可能

委託された農地を守っていくために

この組合は、藤塚と種次の農家の人たちから委託された農地を、法人として預かっている。「これだけ多くの年月と数えきれない人たちのおかげで立派に整備された農地を、これから先も続けていかないと、という使命感がとても強い」
だからこそ、営農のあり方も模索している。専業農家の昔ながらの農業だけではない、集団営農をする法人としての向き合い方を、これから身に付けていかないといけない。1年を通した野菜作りなど収益性の高い、安定した営農を確立して、これからより自立した営農活動ができるように。「この地区の農地を守って、どのようなことがあっても大丈夫だよという法人になっていかなければならないんだよね」そんなことを三浦さんは考えている。

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もともと農業をしていた藤塚の地で、新しい営農を模索する三浦さん