キーパーソンインタビュー

ほ場整備された新しい農地で
明日につながる営農に取り組む。
農事組合法人 六郷南部実践組合 組合長 三浦 善一さん

昔からレタスなどの葉物野菜を多く栽培していた六郷地域南部ののどかな農地が、あの時失われた。専業農家だった三浦さんは、それから土壌を直し、再び整備し、復活させるという、幾つもの課題を乗り越えてきた。そこにあったのは、農地を放り出すことなく、必ずこの地でまた農業をやって見せる、という強い気持ちだった。農業法人による営農を選択した三浦さんは今、これからも長く続く自立した経営で農地を守っていきたいと話す。

STORY 01

農地のすべてが失われた。
農業機械も水路も排水機も。

仙台市東部の沿岸平野の中で、南部に位置する六郷地域。
農事組合法人「六郷南部実践組合」が営農する土地は、名前の通り六郷地域の中でもさらに南部。海側が藤塚、西側が種次という2つの地区からなっていて、ともに名取川に接している。豊かでのどかなこの土地で、昔ながらの農業をずっと続けていた。

白い煙を上げて迫ってくるもの

六郷南部実践組合の組合長三浦善一さんは、もともと藤塚地区で主に野菜を作る専業農家だった。「震災当日は私と妻と父の3人で市場に出荷するホウレンソウの調整を作業場でしていた。大根の種を蒔く時期でもあったから、段取りしていろいろ考えていたところで、地震が起きた」
大津波警報が出たので、三浦さんたち3人は藤塚から約2キロ離れた指定避難所の東六郷小学校に車で避難したという。学校に着いたら校庭は方々から避難してきた人たちの車であふれており、ガラスの破片が散乱していて校舎には入れなかった。小学校の児童たちは体育館に集合していた。校庭の端に立っていると、誰かが「藤塚が火事だ」と叫んだ。「よく見ると、それが波しぶきだった。藤塚の海岸沿いには松林があるのだけれど、本当に名取川の河口付近が真っ白になった。大きな白い波しぶきが、遠くからだと煙に見えたんだね。でも松林から北側は真っ黒なものが上がってきて、それで津波だってわかった」
「津波だ、逃げろ」と叫んで、みんな校舎の中に逃げ込んだ。2階までなんとか上がると、ほどなく1階の天井近くの高さで津波が流れて行った。「もう少し気づくのが遅れて校舎に上がらなかったら、助からなかった」

壊滅的な被害を受けた沿岸の地区

「藤塚は、ちょうど海と名取川河口に接する角地のところにあり、農地面積は55ヘクタールくらい。隣の種次は70ヘクタールくらいだった」避難した小学校から見た津波が、真っ先にのみ込んだ土地だ。
田畑も自宅も全部流された。「作業場も農機も、水路もポンプもすべて流されて、着の身着のまま、体だけ残った」と三浦さんは話す。農業というのは、田畑だけではなく、用水路、排水路、排水機場などがあって成り立つ。農業に係わるすべてのものを失った現実を突きつけられ、三浦さんはこの世の終わりと感じた。

仙台市の東部沿岸では、約1800ヘクタールの農地が津波被害を受けたとされ、南寄りの六郷地域では、東部道路から海側の5地区が壊滅的な被害を受けた。

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海と名取川河口に接する藤塚地区は甚大な被害を受けた

避難所から仮設住宅へ

東六郷小学校は被害が大きかったため六郷中学校の避難所に移動になった。中学校では沿岸の地区の人が集まっていて、かなり混雑していた。その後さらに「JA仙台六郷支店の好意で後から中学校に移動した私たちのために六郷支店の2階を避難所として開放してくれて、私たち藤塚の人が入ることになり、中学校には種次の人など、地区ごとにかたまって避難所生活が始まった。私たちは結局六郷支店に6月までお世話になった。本当に感謝している」

住民は、震災後当面の生活を避難所でしのいだ後、6月になると建設され始めた仮設住宅へ移転する人が増えてきた。避難所で地区単位で生活していた住民たちは、仮設住宅でも地区単位で移転することが多かった。「昔から地区単位でのつきあいが深かったから、そのような点に配慮された移転でよかった」

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種次地区にある組合事務所にて