東日本大震災により、高さ10メートルの津波に襲われた荒浜地区。多くの人が犠牲になったが、荒浜小学校に避難した約320人の地域住民は、全員無事に救助された。
地元の自然を愛するからこそ、正しく自然を怖れ、地域とともに防災意識を持つことの大切さ。
震災当時、荒浜小学校5年生の担任教諭だった阿部さんは、震災の記憶と教訓を胸に、防災教育のあり方を模索している。
日ごろの防災訓練が功を奏し
多くの命が救われた。
防災意識が根付くまち、荒浜
仙台市の沿岸部に位置する荒浜地区。震災以前は約800世帯、2,200人が暮らすまちがあったが、周辺には避難施設がなかったため、津波に対する避難先として4階建ての荒浜小学校が指定されていた。自然と防災意識が根付いていた荒浜地区では、年に1回、学校と地域が連携し、地域合同防災訓練を行っていたという。
「荒浜小学校の近くには仙台市消防局が管理する『仙台市消防ヘリポート』があり、そこでヘリコプターを使った引き上げ救助の訓練をしていました。参加できる人数は限られていましたが、参加者はみんな真剣そのものでした」と阿部さんは振り返る。
訓練は本格的なものだった。火災発生を想定した煙の中を歩く訓練や、災害によりけがをした場合の応急対応として、包帯や当て布の使い方を学ぶ機会などもあった。荒浜小学校の校舎では、児童を保護者に引き渡す訓練もしていたという。
「荒浜小学校には、防火・防災意識の啓発を図るために結成された『少年消防クラブ(BFC)』がありました。学校と地域が一体となるような地域合同防災訓練や運動会などの際には、少年消防クラブの子どもたちがマーチングバンドを組み、演奏会を開催しました。子どもも大人も盛り上がり、地域の防災意識が高まるきっかけになったと思います」
震災直前に行った、机上の避難訓練
日ごろ津波を想定した防災訓練を行ってきたが、偶然にも、震災の前日、荒浜小学校では校長先生、教頭先生、教務主任などが集まり、万一の地震や津波にどう備えるかをより詳しく話し合っていた。地域の人が避難してきたとき、どの出入り口から受け入れるか、お年寄りなど体が不自由な人はどの教室に誘導するかなど様々な意見が飛び交った。
「2010年にチリ中部地震が起こったことや、度々前震があったことなどから、大地震に備える必要を感じ、話し合いが行われたのかもしれません」
一般的に学校では、建物が崩壊する恐れがあるため、地震が起きた際の避難場所を校庭にしている。荒浜小学校でも同様だったが、その話し合いを機に、屋上に変更することにした。
「耐震工事はされていたし、建物が倒壊することは、まずないと考えました。荒浜小学校は海が近いので、津波の被害の方が心配でした。そのため、屋上を避難場所にしたのです」
この時の判断が、結果的に約320名の命を救うことにつながった。
3月11日、震災が発生。阿部さんは5年1組の帰りの会の途中で、激しい揺れに襲われた。
「なかなか揺れがおさまらなかったので、子どもたちはとても怖がっており、泣き出す子もいました。私は『もう少しでおさまるから、みんな頑張って』と必死に励ましました」
揺れがおさまってからは、これまでの防災訓練の通り、全校児童を一旦4階に避難させ、保護者に児童を引き渡した。その後しばらくして、大津波が荒浜を襲った。
「普段、学校からは松林で海が見えないんです。でも、震災の時は、松林の上に真っ黒い水平線が見えました。そしてすぐに大津波が押し寄せてきたんです。校内にいる子どもたちは、津波に飲み込まれるまちの様子をただ呆然と眺めていました」
徐々に校舎に海水が入ってきて、水面も高くなってきたため、全員急いで屋上に向かった。
「事前の話し合いにより、震災当日はスムーズに行動することができ、計画通り屋上に避難しました。これまでの地域合同防災訓練の成果もあり、約320人の避難者すべてをヘリコプターなどで救助することができました」
しっかり訓練していれば万が一の時にも役に立つ。災害時に1人でも多くの命を救うためには地域住民一人ひとりの防災意識が大切だと、経験を通じて痛感した瞬間だった。
震災当時、5年1組の担任だった阿部さん。地震の恐怖から泣き出す子どもたちもいたが、優しく声を掛け、励ましていたという
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