想いつながる座談会

「誰かのために、何かをしたい」。
過去・現在・未来――形は変わっても、変わらない想いがある。
東北学院大学災害ボランティアステーション
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Profile(左から)

文学部歴史学科2年

横田 麻彩美 さん

経済学部経済学科2年

鈴木 勇汰 さん

経済学部共生社会経済学科3年

松坂 東吾 さん

災害ボランティアステーション所長

泉 正樹 教授(経済学部経済学科)

災害ボランティアステーション前所長

伊鹿倉 正司 教授(経済学部経済学科)

災害ボランティアステーション所員

其田 雅美 さん(専任職員)

あの日、東北学院大学の学生・教職員は、土樋・多賀城・泉、3つのキャンパスで未曾有の大震災を経験する。そのようななか土樋キャンパスでは、隣の敷地にあった東北大学のテニスコート(震災当時)が緊急避難場所となった。現在、東北学院大学「ホーイ記念館」が美しく建つその地を、当時は不安、焦燥、恐怖が埋め尽くしていた。しかし、それらを振り払うように、自分たちに何ができるのかを考え、行動した学生たちが礎となって、2011年3月29日、災害ボランティアステーションは産声を上げる。
「誰かのために、何かをしたい」。当時の学生と変わらぬ想いを抱く今の学生が、彼らの活動、想いを今後どのように引き継いでいくべきなのか。当時を知る教職員とともに、考える。

水面下にあった、「ボランティアセンター」設置構想

2011年3月29日に災害ボランティアステーションが設立されてから、被災地で活動する学生ボランティアたちを全面的にサポートしてきました。現在は東日本大震災の被災地での活動に加え、各地で発生する災害にも対応していますが、ボランティアステーション設立の経緯をお教えいただけますでしょうか?

其田 実は、東日本大震災(以下、震災)が起こる半年前、2010年の秋頃から、「ボランティアセンター」の設置構想がありました。これは、同年4月、本学に「学長室」という部局が新しく開設され、学部横断型のさまざまな活動を推進していこうという流れの中で出てきたプロジェクトの一つでした。今は退職されていますが、当時の学長室長の佐々木俊三先生が中心となっていたんですよ。

松坂 初めから災害ボランティアに特化していたわけではなかったんですね。

其田 むしろまったくの別物でした。水面下では「フードバンク活動」を軸に、仙台市内のホームレスを支援する団体の手伝いをしておりました。震災後は佐々木先生のほか、当時経済学部の教授だった阿部重樹先生(現・学校法人東北学院 総務担当常任理事)、同じく経済学部の郭基煥先生、そして私が中心メンバーとなって、「災害ボランティアステーション」という組織を立ち上げ、その運営に携わりました。

伊鹿倉 私自身はボランティアセンターの構想には当時まったく関わりがありませんでした。地震発生後、8号館の3階にボランティアステーションの活動拠点があったのですが、そこを出入りしている泉先生を見かけたのが始まりですね。話を聞き、「何か手伝えることがあれば」と名乗りをあげました。

 私の場合は、当時学長室副室長でもあった郭先生に相談されたことがきっかけで手伝うことになりました。元々私も、ボランティアセンターのことは知らなかったのですが。

其田 災害ボランティア関連の経験はまったくなかったので、ボランティアステーション立ち上げ後も他組織の活動や運営方法を参考にするなど、試行錯誤をしながら体制を作り上げていきました。ただ、震災前からボランティア活動に携わる学生や教職員がいたからこそ、すぐに動ける状況にあったというのは大きいかもしれません。

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当初からボランティアステーションの運営や活動に携わっていた3名だからこそ、当時の学生たちの行動力には驚かされたという


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学生たちは津波被害を受けた地域で率先して活動に取り組んだ

大学より先に動く、学生たちに背中を押された

其田 当時の活動は大きく分けて災害復旧と運営サポートがありました。泉先生や伊鹿倉先生には、学生ボランティアと一緒に災害復旧の現場に行ってもらいましたね。

 ほぼ運転手としての参加でしたが。

鈴木 どの辺りまで行ったんですか?

其田 当時は通れない道路も多かったから、仙台市沿岸部――七郷や六郷あたりが中心でした。その後、亘理や七ヶ浜と活動範囲が少しずつ広がって。

伊鹿倉 石巻市内にも何度か行きましたね。道路は片付いてないし、どこが復旧しているのかも分からなかったから本当に行くのが大変でした。現場ではみんな、彼らなりに現実を見つめ、現地の人々のニーズを聞きながら一生懸命取り組んでいたのを覚えています。

 要望を聞いて黙々と仕事をこなす姿は印象的でしたね。ボランティアに参加した理由を聞いてみても、純粋に「助けたいから」と。

伊鹿倉 実際は疑問に思うことも多かったと思いますよ。「本当にこれは私たちがやることなのか?」と。例えば庭の泥掻きのように、今すぐやらなくてもいい要望とかもあって、でもそれを口にすることなく向き合っていました。

其田 その点に関しては今も昔も変わらないですよね。災害復旧と聞くとそれぞれが思い描く活動内容があるけれど、被災した住民の話を聞くと要望はまったく別のものだったり。それでも口に出さずに黙々とこなすというのは大事なことだと思いますよ。

横田 今の自分と同じくらいの人たちががんばっていた話を聞くと、その想いを途絶えさせちゃいけないなと思いますよね。ところで、運営面でのサポートというのはどういうことをしたんですか?

其田 全国から集まる復旧ボランティアをどこに割り振るか采配したり、支援物資を整理したりです。仙台市福祉プラザに仙台市の災害ボランティアセンターが設置されていたのですが、そこの運営ボランティアとして学生を紹介することもありました。ボランティアステーション設置後はその運営も手伝ってもらいましたね。ボランティアのマッチングから文書の整理、ボランティア保険の加入リストの作成など、教職員も学生もみんなでこなしました。

松坂 学生ボランティアは最終的にどれくらい集まったんですか?
其田 3月29日にボランティアステーションが開設されてから授業が開始される5月14日までの約1か月半の間に集まったのはのべ約1,000人。

伊鹿倉 でもボランティアステーションができる前から学生は自分たちで活動していたようですよね。

其田 そうそう。地震発生後も東北大学のテニスコート――ホーイ記念館が建っているまさにこの場所に避難したのですが、案内誘導から体育館の避難所開設まで、学生会のメンバーが主導していましたね。大学より先に学生が動いていて、そのフットワークの軽さに驚かされました。このままじゃいけない、という想いが、ボランティアステーション立ち上げの大きなきっかけになったと言えるかもしれません。

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震災当時は東北大学のテニスコートがあり、一時避難所となったその場所には、現在「ホーイ記念館」がある