HOPE FOR project 代表
髙山 智行さん
2017年4月より震災遺構・仙台市立荒浜小学校嘱託職員。
「世界防災フォーラム」のセッションプログラム「『より良い復興』の実践的な取り組みと今後の方向性」にパネリストとして参加された髙山さんに、毎年3月11日に荒浜で風船をリリースする活動を始めたきっかけや、セッションに登壇し伝えたかったこと、荒浜への想いとこれからの活動について伺いました。
震災時は荒浜近くの自宅にも津波が押し寄せたため、避難所となった七郷小学校へ。そこには約3,000人の地域の方々が避難していました。その状況下で、荒浜や七郷近辺から遠く離れて暮らすご家族やご友人がこの避難所内の安否をどうやって確認するのだろうと思い、比較的通信しやすかったTwitterで、「この避難所にいる可能性が高い方であれば、私が捜します。」と発信し、延べ100人以上の方へ安否の報告をしました。
▲荒浜の空を埋める、「HOPE FOR」のメッセージを入れた風船
その後は、荒浜地区などで罹災した写真を回収し行政に届ける活動などもしましたが、同級生とともに、震災のあった3月11日に自分たちも何かできることをしたいという思いから、花の種を入れた風船を荒浜で飛ばす企画を考えました。風船に「HOPE FOR」の文字を入れたのは、その後にそれぞれの想いを込めてもらえるように、また、風船の中に花の種を入れたのは、落ちたところで花を咲かせるようにとの想いからです。2012年3月11日、荒浜の海岸に行くと、そこには1,700人もの人が集まっていて、その方たちにも声をかけ、皆で色とりどりの風船を飛ばしました。中には涙を流す人や手を合わせる人もいて、声に出さなくとも亡くなった方や震災前の荒浜に想いを馳せた瞬間を目の当たりにしました。もう住むことはできなくても、集まれる場所や帰る場所が年に一度でもあることが大切だと思い、毎年3月11日に荒浜に集まる方たちとともに、風船をリリースする活動を続けています。
荒浜地区は災害危険区域に指定され、もう人が住むことは叶いませんが、昨年3月に東部沿岸部の集団移転跡地利活用方針が出され、事業者の募集も始まっています。私は、一昨年から荒浜地区に住んでいた方にヒアリングし、まとめたものを行政に届けることをしてきました。かつて住んでいた人は、そこに暮らしが続くことが当たり前で、事業をやることを望んでいたわけではありません。これからどうなって欲しいか言葉にすることはなくても、この場所に対する想いや、どうしたら今後もこの場所と関われるのかなどといった思いがある。その「声なき声」にも耳を傾けて欲しいというお話しをさせていただきました。
防災やよりよい復興を自分のこととして考えることが大切です。防災集団移転跡地や震災遺構もただ単に新しい建物が出来て、何かの事業やイベントが行われるだけではなく、人が人を繋ぎ、この地を訪れる人たちに、これからの人たちに帰結していくものであって欲しいです。これは市民みんなが考えるべきことだと思います。
私は、荒浜地区が多くの地域住民の想いを馳せる場所として、帰って来る場所であって欲しいと思っています。そして、震災当時と今では地域住民も行政も考え方が変わってきているからこそ、ここに住んでいた人たちが今どう思っているか、このまちをどんな風にしていきたいのかなど、しっかりと声を聞いて想いを残していきたいと考えています。
「荒浜小学校」は、防災・減災や津波の脅威を伝えるために震災遺構として遺されたわけですが、被災者の中には展示を見ることができないという方もいますし、小学校が遺構となったから行ってみようと考えた人もいる。時間が必要かもしれませんが、地元の人にもちゃんと見てもらえ、外から来た人にも伝わるものにする、そのバランスを取っていくことが大事だと思っています。
「HOPE FOR project」には、今、一回り下の世代、当時、中学生や高校生だった子や、一回り上の世代の人が手伝ってくれています。3月11日に荒浜で過ごせる場所、帰ってこれる時間のために、いずれは、下の世代の子たちがそういった場づくりを担ってほしいと思っています。私自身もできることを続けていきたいですね。
HOPE FOR project
2012年3月11日、荒浜地区に訪れた1,700人の方々と花の種を入れた風船を荒浜の空へリリース。翌年以降の3月11日に同企画を実施する他、灯りのない街を灯すキャンドルナイト、かつては学び舎だった荒浜小学校の音楽室を使用しての音楽イベントを実施するなど、荒浜に暮らしていた人々の想いを伝える活動を続けている。